昭和44年8月30日 朝の御理解
御理解第59節「習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ」
ここんところを頂きますと。まず、習うということ、まず、覚えるということ。信心をね、長年さして頂いておっても信心をひとつも習ってない人がありますよね。覚えてない人がありますよ。御教えの一ヶ条だってほんとに分からん。「あんたの好きな御教えを三ヶ条でもいいから書いてみてごらん」と言われてから、その御教えひとつ、言わば書けない言えないという人があるんです。ね、稽古をしてない証拠です。
ただ何とはなしにお参りして、お取次を頂いて、おかげを頂いておるというだけ。だから、ここでは、そういうような、まあ対象としてないようですね。習うたことを覚えて、こういう場合、教祖様はこのように教えておって下さるから、御神訓にはここんところは、こうあるから。御理解にはこう説いておって下さるから。とその事をその時その時の問題と言うか、事柄に、押し填め、押し当てさして頂いて、そこんところをおかげを受けて行く。
というように、いわゆる本気で信心の稽古をしておる人に対するまたは、そういう人に対する、まあ、を対象としての御理解だというふうに思いますよね。でないと、全然意味が分からないだろうと、これを頂いても。いやぁおかげは頂きよります。そりゃぁもう、確かに金光様の信心は、稽古をしてもしなくてもですよ、やはりあの、おかげを受けるんです。けれども、そういう意味ではないのですね。
覚えておって、ね。出世をしということは、覚えておっておかげを頂き。「あの人のおかげで」と。まあここで言うならば、覚えておって親先生のおかげでこういう場合、こういうようなおかげが受けられたということを、皆はですから、どうでも稽古をしなきゃいけん。ね。
なるほどその、練習はありますね。例えば、楽器でも師匠があって教えてくれます。ね。それから先はもちろん本人の練習ですけれども、手ほどきをして頂いたということ。ね。手ほどきをして頂いたというところから、練習が始まる。それが自分のものになる。手ほどきね。
琴なら琴という楽器を自由自在に弾きこなせれるようになる。ね。そんで、それを弾きこなしておる時の気分というものは、これは自分で楽器をいじったもんでなかにゃあ分からん。稽古したもんでなかにゃあ分からん。何とも言えん心持ちになれる。
きちっと調子が合うた、例えば琴を、ね、自由自在に弾きこなせれるようになる。ね。そういう、例えば、おかげを受けた、受けて始めて師匠の、師匠に対するお礼心も湧くし、また、自分も喜ぶ。自分も楽しい。ね。そういう意味のことを分かって欲しいと言うておられる御理解だとこう思います。だから、あんたは稽古をしておるかどうかということをまず、自問自答してみて、だんだん稽古をさして頂いておるということが有り難い。
そこで、『おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ』と。ね。真っ暗いところに、こうスポットが当てられる。そこだけが明るくなる。周囲が真っ暗だのに、自分は明るい。誰だって「ああ、おかげを頂いた」と思いますよね。
例えば、一昨日は皆さんもご承知のように、少年少女会、青年会の主催でキャンプファイヤーがここで開かれました。まあもちろん、あの事をなされるまでには、ずいぶん、皆さんがいろんな準備をなさりましたり、言わば、祈りに祈ってお取次ぎを頂いて、その事をなされました。ほれであのように盛大に、しかも楽しゅうにできましたが。私、昨日特別その私、まあ余談ですけれども、感じました事はですね。この「信心の継承」ということはですね、もうあのように楽しい中に、あの、子供達が信心を分かってくれるということが有り難かった、という母親のお礼お届けがいくらもあったことです。ね。
別に事立て、荒立てて、んならもう、信心を言うわけでも何でもないのですけれどもです、ああいう楽しい、まあ言うなら、おそらく子供達の印象に深く残ることであろう。あのように楽しゅうあの、子供達が信心を受け継いでいってくれるということが、たいへん有り難かった、というその、お礼お届けがあったこと。ね。
まだあれには参加しない三つか四つぐらいの子供でもです、もうとにかく、まあおぼろげながらにでも、何年、何十年後でもです、ああいうこ「とがあった。ほんとにもう、火をどんどん焚いてから、こう皆で輪をして踊った」といったような事やらがですね、おそらくその、子供の脳裏にいつまでも残ることであろう。しかもあれは合楽のお広前であったと。
お神様のことがですね、そういうようなあの、もので愉快、いわゆる信心が、ああいう楽しい事で分からせられるということが母親としては有り難かった、といったようなおかげを受けて、ほんとに有り難いことだなぁとこう思わして頂いたんですけれど。
例えば、んなら、あのような楽しい集いといったようなものがですね、どうでしょうね、一日遅れの今日であったら。または昨日であったら。
昨日は夕方からあんなお湿りでした。だったです。ね。今日もまたこうやってお湿りがあっております。昨日であっても、今日であってもいけなかった。やっぱり昨日の晩、いわゆる一昨日であって、あれだけ楽しい集いになれたということなんです。ね。ですから、もうほんとに、これは誰が考えたって「お繰り合わせを頂いた。おかげを頂いた」とこう、私は思うだろうとこう思う。
だから、そういうおかげはね、受けられ。言わば稽古をしなくても受けられる。ね。ですから、そういう時に、まあおかげをおかげと気付かんぐらいなら、なおなんですけれども。やはり、「昨日はおかげを頂いとったなぁ」とこう思わしてもらえりゃ有り難い。もちろん神様も喜んで下さるだろうし、金光大神も喜んで下さるだろうけれども、そういう時だけおかげを受けたというのであっては、私は、ほんとうの意味においての神の、「神の喜び」ということになってこないと思う。
金光大神のほんとの喜びというのじゃなくて、自分の都合の良いようになった時だけ「有り難い」と言うておったんでは、私は、「神も喜び、金光大神も喜び」自分の喜びであろうけれども、金光大神の喜びにも神の喜びにもなっていない。ここでは、『神も喜び、金光大神も喜び』というところのおかげ。そういうおかげを指しておる。指してあるとこう思うんですね。
そこで私どもが、ここで「神も喜び、金光大神も喜び」といったようなおかげを受けるというようなことが、ね。これは、稽古をしておらなければ分かることではない。ね。しっかりお話を頂いておかなければ分かることではない。しかもそれには、練習に練習が積まれておらなければ、できることではない。分かっておっても、おかげと実感しきっていない。ね。
言うなら、楽器にたとえて申しましたが、ね。それを弾きこなせれるというか、ね。どんな場合でも良い音色が出る。楽しい。どんな場合でも、どんな曲でも自由自在に弾きこなせれる時に、たとえて言うと、「甲」の人は、おかげと言い、「乙」の人は、おかげではないとひとつの事を、例えば思うような場合、ね、まあ平いの人はおかげとも思わん、おかげでないとも思わない。まあいろいろありましょう。
ですから、そういう場合に、どのような場合でも、おかげと頂けれるという信心。そういう稽古がなされておるという信心。そん時始めて、「金光大神も喜び、神も喜び、同時に氏子も喜びじゃ」ということになるのじゃないでしょうかね。
たくさん信心はしておりますけれども、ほんとに「信心の稽古」と。ね。先生からこの事だけはしっかり教え込まれた。その事だけは、もう、ほんとに日々その事に取り組んで、稽古をさして頂いた。ですから、この曲だけは、このように自由自在に弾きこなすことができる。例えば楽器で言うならね。
という、それだけのおかげを受けなければ、私は、この御理解のその意味が分かったということにならんと思う。ただあの、おかげさえ頂けば、ね。自分の思うようなおかげさえ頂けば、神も喜び、金光大神も喜び、自分に喜びやってくれない。それはただ自分だけの喜びじゃということなんです。
はあ、もう商売繁盛のことをお願いさして頂いとりますから、商売が繁盛するから有り難い。ね。この事をお願いさして頂いたら、思うたようにおかげを受けたと。願うた通りにおかげを受けたと。言うのであってはね、ほんとのおかげでは、あの「神も喜び、金光大神も喜び」ということにならないと思う。ね。
そら、金光様のご信心の尊さというのは、ね。神も喜べ、金光大神も喜んで下さり、自分も喜べるという、三者一体と申しましょうかね。ね。そこんところに、私は、お道の信心の言わば尊さと。
果たして私達が受けておるおかげが、ね、そのようなおかげになっておるであろうか。そういうおかげの為の信心の稽古ができておるであろうか。それを思うてみなければいけんと思います。
ずいぶん教えも頂いたけれど、一つも残っていない。「あんた、教祖様のあの百八十何カ条ある、あの御教えの中で、どの御教えが一番好きですか。どの御教えがあなたの身に付いておりますか」「ええと、そげん言われると、ちょいと言われない」と。ね。御教え一つが自分のものになっていないといったようなことではね、この59節に言うておられる「神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜び」ということになっていない証拠なんです。
この事だけは、芯から師匠に教え込まれた。この事だけは、もう自由自在に頂きこなすことができる。弾きこなすことができる。ね。その頂きこなすことができるということが有り難いのだ。ね。いわゆる、楽器を弾きこなすことができる。そこに自分の楽しさ、弾く者の楽しさ、聞く者の楽しさ。そういうような、私は、おかげを受けて始めて、ね。「師匠も喜び、氏子も喜べれれる」という世界があるんです。ね。
だからここでは、『ここには信心の稽古にくるところ』と仰るが、本気でやはり稽古をしなければいけません。しかもそれを繰り返し繰り返し。ね。練習に練習を積んだ上にです、ね、何とも言いようのないほどの楽しさというものがですね、生まれてくるんじゃないか。そういうおかげを頂けた時に「神も喜び、金光大神も喜び」ということになり、自分はもちろん有り難いということになるのだ。そういうおかげを受けておる人が、私は、非常に少ないと思う。ね。
ただあの、先ほど、少年少女会のキャンプファイヤーがあの日であって良かった。一日遅れておったらもう、お湿りで、言わば流れてしまうところであった。ね。そういう例えば、んならおかげを頂いてです、「はあ、おかげを頂いて有り難うございます」と言うても、そら有り難いです。そら神様が喜んで下さることはないです。取次ぎのもんも「はあ、良かったね」と言わんことはないですけれども、そういうおかげをここでは指したのではないと。ね。
師匠から習うたことを繰り返し繰り返し練習さして頂いて、ね。信心のない者は喜べないところをです、この事を教えて頂いておったおかげで、その事が喜べたり、その事がです、もったいないと思えたり、しかもそれが、自由自在に自分の心の上に頂き、有り難しと頂き止めれるようなおかげを受けた時始めて、「金光大神も喜び、神も喜び」ということになる。
だからね、言うならば、お願いしておったら、もうこげな不思議なおかげを頂いた。「はあ、やっぱり神様であるなぁ。一日遅れておりゃぁもうほんとに、あれだけ皆が一生懸命なっとたのにがっかりだったけれど、万事にあのようなおかげを頂いた」というようなおかげだけで止まって、そういうおかげだけをおかげと思うて、ね。自分のところにだけスポットが当てられて、自分のところだけが明るければ、もうそれでおかげだと思っておるような信心ではおかげにならん。ね。
「神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜び」といったようなおかげを受けてこそ始めて、私はお徳が受けられると思う。ね。ですから、よーくその、そういうお道の信心を頂いておるけれども、ね。ただ、自分の都合良うおかげ頂いたことだけが、おかげ話というようなおかげ話だから、おかげ話はいけん。程度が低いというふうに言われるわけなんです。
ですけれども、ね。神も喜び。金光大神も喜べれる、自分ももちろん喜べるようなおかげならばです、これはもう、おかげ話の方が、実はほんとうであり、有り難いんだということになるんです。ね。これは信心をしなければ、信心の稽古をしなければ頂けないおかげなんですから。ね。「じゃあ、ここに琴ば(一めん?)あるから、あなた弾いてごらんなさい」と言うてもです、稽古しておらん者は、調子も合わせることはできんでしょう。もちろん、弾く事なおさらできんでしょう。ね。
そういう、ただ聞いて楽しいといったようなものだけではなくて、ね。それが自由自在に自分も弾きこなせれるという、それは、練習に練習を重ねた上に弾きこなすことができるのであるから、ね。師匠も喜ぶでしょう、自分も楽しいでしょう、聞く者も楽しい。ね。そういうおかげをここでは『おかげを受けてくれれば』と仰るおかげとは、そういうおかげのことだと私は思うのです。だから、そういうおかげを願い、または、目指しての、お互い信心の稽古をしておるだろうか。本気で思うてみなければいけません。ね。
そこに、師匠も喜び、ね。いわゆる「神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜び」というようなおかげになってくる。そういうおかげを、ここではおかげと言うんであるし、また、そういうおかげの頂けれる信心の稽古を、神様は求め願うておられる御教えである、と私は思います。それはただおかげを受けたと、願うたことが成就したと。ただ有り難い。それはあなただけが有り難いのである。というようなですね、その、おかげではいけません。ね。
『習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない』と。毎日毎日御理解を頂いておるが、ね。聞いちゃ忘れ聞いちゃ忘れして、どれだけ得になるか。それを覚えておって、いよいよの時には、はあ、今日頂いた御理解は、ここんところにこう押し当て、押しはめしていかなければならないというように、その事をひとつの焦点としてです、日々の信心生活が支えられる。そういう稽古をしてこそ始めて、習うた値打ちがあるわけです、ね。
『覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世をしたと言えば、師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ』と。ね。信心頂いておらなければ、分かることではない。信心を教えておってもらわなければ、できることではない。そういう事柄に取り組んで、信心を頂いておるから、特別に頂かしてもらえれるというか、そういう稽古が自分のものに身に付いてきた時に始めて、ね。三者一体としての喜び、神も金光大神も人間氏子も喜べれる。そういう、だいたいおかげを受けてくれよと。そういうおかげをもって、神様は、「信心しておかげを受けてくれよ」と仰るのである。そういう信心を身に付けて、どうぞ幸せになってくれよ、と言うのである。
幸せという字を書いてみて、上から見ても幸せなら、下から見ても幸せと読む。ね。ただ、こちらから見た時だけが幸せだというんじゃなくて、ね。上から見ても幸せ、下から見ても、言うならば、どちらから、どちらへ転んでもそれをおかげと頂けれる信心。そういう信心の稽古をせよ。また、してくれよという意味がです、この59節の中には含まれておると思うのです。ね。
誰が見ても、やっぱり信心しござるからおかげを受けられた。
私はよく、もう十年も前だったでしょうかね、皆さんがご承知でしょうか。中村金之助、あの人が人気の絶頂という時代でした。北海道に、(はるまや一門で?)巡教に行ったんですね。お父さんのトクゾウさん、それから亡くなった、その二代、次のトクゾウさん。それにカズオ、それからとにかく、自分の親子兄弟、まあ、従弟ぐらいで一座を組んで行ったというですね。
その北海道のある劇場で、ね、あの大向うから皆が、この、いわゆる、こう皆が並んで口上がありますね、挨拶がありますね、大向うからその、「はるまや一家花ざかり」というその、声がかかったっちゅうんですよ。
私はそれを何かの本で見せて頂いた時、もうたいへん感動した事があったんです。「はるまや一家花ざかり」だと、もう花ざかりなんだ。ね。これはもう皆さんもご承知のように、あちらは金光様のご信者、熱心なご信者さんですよね。金之助もカズオも全部ありゃ、金光様からお名前を頂いた者らしいですね。
ほいで私、もう花ざかりのおかげを受けた時にです、ほんとに神様は感動ましますでしょうけれども、その花がね、また散ってしまうようなことであってはがっかりでしょうが。ね。
今日の御理解を頂いておりますと、もちろんそういう花ざかりのおかげを受けて、大向うからは「何々さん一家花ざかり」と声がかかるようなおかげを受けるということも事実ですけれども。その花をいよいよ、花だけではない、実りにしていく。徳にしていく。ね。そういう信心を頂いた時に、「神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ」ということを、今日は、この59節から分からして頂いたように思います。ね。
ただ、教えは身に付いていなくてもです、だんだん信心をさして頂いておりますと、そういう花ざかり的なおかげを受けますけれども、ね。散ったら後は淋しい事になったんでは、神も喜び、おかげを落としては、神は喜ばんということは、それこそ、ある時には、あのように「一家花ざかり」と言われるほどしにおかげを頂いたけれども、散った後の淋しさというか、悲しさというようなものが残るようなものであってはならん。散ったらそれが実るもんでなからにゃ。
為にはどうしても、教えを身に付けとかなきゃいけん。ね。本気で教えを頂かなきゃいけん。そしてそれを繰り返し繰り返し練習される。それは楽器の練習をするようなもの。ね。
そこに、もうそこんところを一度覚えておって、覚え込んでおったらです、いつでも、自由自在に自分で調子が合わせられて、自分で弾きこなせて頂いて、自分も楽しいだけではなくて、教えた師匠も喜ぶなら、弾いておる自分も嬉しいなら、また、聞いておる者も楽しい、といったような、そういうおかげの受けられれる信心。そういう信心をこの59節から頂きたいと思うですね。どうぞ。
明渡 孝